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2020年1月8日水曜日

62. 空間と時間の対化の本質

さて、ヌーソロジーでは、次元観察子の最初の対であるψ1~ψ2の説明として、最も簡単な説明としては、「ψ1:空間」、「ψ2:時間」とあります。ヌーソロジーの基本的な考え方としては、あらゆる事象を「双対的な概念」として捉えることがふつうです。ヌーソロジーではこのことを「対化」と呼びます。大雑把に言ってしまえば、何か「負荷」的なものが生じれば、その「反映」的なものが生じるということです。
この考え方は、素粒子物理学などにおいて「双対性」(デュアリティ)として捉えられている概念とほぼ同じようなものではないでしょうか。

ψ1~ψ2という対は「表相の方向における対化」と呼ばれます。確かに、「時間」と「空間」というものは4次元の話などではたいてい「時空」としてペアで語られます。まず、時間のイメージはビッグバンの1点から現在の宇宙の果てまでの世界ができたという、ビッグバンの1点を頂点とする半円錐形のイメージがあります。一方、空間のイメージはというと、自分が宇宙の中心に立っている場合、そこから宇宙の果てまで空間が広がっているように感じますが、137億光年以上先の宇宙の果ての空間とは、ビッグバン間もない宇宙だということになります。ということは、時間の進行と空間の膨張は何だか逆向きではないかというわけです。

ここでふと立ち止まります。そもそもこの説明は何だかおかしく感じないでしょうか。物理学の世界で、「双対」と言えば、真っ先に浮かぶのが「位置」と「運動量」といった「正準共役な関係にある1対の物理量」です。そして、これと同様なものとして、よく「時間」と「エネルギー」が挙げられますが、実はこの組はちょっと意味合いが違います。この「時間」とは実際に経過する時間というより、むしろパラメータとしての意味合いの時間です。だから、「時間」と「エネルギー」の間の「不確定関係」は「位置」と「運動量」の間の「不確定関係」とは正確には別ものなのです。むしろ、人間が感じる「時間」というのは何かの「運動」によって経過を感じる場合が多いです。実際、時計で刻まれる時間だってそうだ。何かの運動なしに、正確に時間を測定することはできません。というわけで、人間が体感あるいは知覚できる「時間」というのは、「運動量」のことだと言っていいかもしれませ。「空間」はそのまま原点からの距離としての「位置」のことだとすれば、結局、ヌーソロジーの最初の対化である「空間」と「時間」と称していたものの正体は、実は「位置」と「運動量」のことではないのか、と言いたいのです。

このヌーソロジーの次元観察子ψ1~ψ2は「表相の方向における対化」と呼ばれます。それは、この関係が波動関数の肩の部分である指数のところに現われる「位相」を表現しているからではないかと思います。

例えば、自由運動をする電子のような平面波の波動関数

eの肩に乗っている指数部分が、この波の位相となりますが、この位相の( )内の部分は「作用」と呼ばれます。つまり、
と書けますが、この「(運動量)・(位置)-(エネルギー)・(時間)」という形こそ、ヌーソロジの次元観察子ψ1~ψ2およびψ*1~ψ*2の関係を表しているのではないかと考えます。


ここで、時間、位置(空間)を変数と考えて、作用を時間、位置(空間)で微分すれば、
となりますし、逆に、エネルギー、運動量を変数と考えて、作用をエネルギー、運動量で微分すれば、
となります。

私たちが3次元空間だとか言ってx軸、y軸、z軸などとふつう考える座標系は、この時間、空間を変数と考える、前者の見方で、「位置座標空間」であり、これはある意味「観測者」が静止している「静止位置座標空間」と呼んでもいいものです。この「静止位置座標空間」では「運動位置」は静止位置ベクトルの微分で表されます。逆に、エネルギー、運動量を変数と考える、後者の考え方は、「運動量座標空間」であり、これはある意味「観測者」が運動している「運動位置座標空間」と呼んでもいいものです。この「運動位置座標空間」では「静止位置」は運動位置ベクトルの微分で表されます。少し、ヌーソロジー的に観測者と対象の関係を考えますと、

位置       r 顕在的静止位置座標=顕在的静的視点の観測者が見る対象の位置 
運動量     p 顕在的運動位置座標=顕在的動的視点の観測者が見る対象の位置 
時間       t 潜在的静止位置座標=潜在的静的視点の観測者が見る対象の位置 
エネルギー  E 潜在的運動位置座標=潜在的動的視点の観測者が見る対象の位置 

という感じになるでしょうか。これらを対峙的な表現でまとめて書けば、

静止位置  (位置)静止位置微分(運動量)
運動位置微分(位置)運動位置   (運動量)

という関係になるわけです。これは、前述の古典力学の「ハミルトンの正準運動方程式」のところで出て来たキアスム(交差配列)構造と大いに関係があります。
62_1 時間・位置(空間)とエネルギー・運動量の関係

なお、余談ですが、古代ギリシアのピュタゴラス学派は、「数学」の語源であるマテーマ(複数形がマテーマタ)=「学ばれるべきもの」として、上の図のように、数学的学問を、まず数と量に区分し、それぞれを静止と運動に区分していました。下段は具体的・実践的な「術」であり、上段は抽象的・本質的な「学」として、上段の四科を尊重していました。まだ単なるイメージでしかないのですが、私は、この四科から連綿と引き継がれてきた流れに、この静止と運動をめぐる精神の運動のようなものを垣間見てしまいます。
62_2 古代ギリシアの「ピュタゴラス学派の四科」(クワァドリヴィウム)

さて、これら静止と運動の位置と位置微分に、ヌーソロジーの次元観察子ψ1~ψ*1,ψ2~ψ*2を対応させるわけですが、この対応には、
ψ 1:静止位置  (位置)⇔ψ*1:静止位置微分(運動量)
ψ*2:運動位置微分(位置)⇔ψ 2:運動位置   (運動量)
あるいは、
ψ 1:運動位置  (位置)⇔ψ*1:運動位置微分(運動量)
ψ*2:静止位置微分(位置)⇔ψ 2:静止位置   (運動量)
2通りが考えられます。
ヌーソロジーの立場としては、人間の通常の意識は、その構造の本来性から見れば反転している場合が多いので、後者のほうが妥当である気がします。ところが、そうすると、
ψ 1:空間        ⇔ψ 2:時間
という対応の妥当性を感じなくなります。そうすると、やはりふつうに考えて前者の構造の方が妥当に思えてきます。
つまり、人間が「時間」だと思っていたものは、運動位置というわけです。こうすれば、ミクロからマクロへと、マクロからミクロへという方向が互いにちょうど逆になります。
前述のアインシュタイン=ド・ブロイの関係、つまり、

を用いれば、このマクロ⇔ミクロ反転関係は、より明確になります。
61_3 位置と運動量、時間とエネルギーの反転関係


実際、このマクロ⇔ミクロ反転関係は、物理学では、位置座標空間と運動量座標空間を行き来する道とも言える「フーリエ変換・逆変換」によって実現しています。
61_4 位置座標空間と運動量座標空間の間のフーリエ変換・逆フーリエ変換
61_5 ケイブ・ユニバース(円環状の洞窟宇宙)
NOOS LECTURE 2009-2010 LIVE DVD Vol.2』より

ヌーソロジーにおけるケイブユニバースのNOOSNOSの運動を、ψ1とψ2の関係性と、波動関数の右肩の指数に出て来る「作用=(運動量)・(位置)-(エネルギー)・(時間)」の対応については、私は以下のような対応で考えています。


ところで、このψ1~ψ*1,ψ2~ψ*2には、私は「定数」的なものを感じます。それは、言ってみれば、特定の座標変換において、


  変わる  物理量である「ベクトル」(変量) に対して、
  変わらない物理量である「スカラー」(不変量)を対応させる

ことであったり、あるいは、

  現代物理学の行列演算子や微分演算子などの「q-数」(量子論的数)に対して、
  古典物理学のふつうの数に当たる「c-数」(古典論的数)を対応させる

ことかもしれません。そういう意味では、それらは「1次元」的存在=「実数」的存在だと言っていいかもしれません。つまり、この段階では、たとえ、3次元空間の存在であろうと、4次元時空の存在であろうと、実数的だと言えるのです。

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