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2020年1月7日火曜日

55. 物理学の地平とヌーソロジー

さて、こうして今日に至るまでの物理学、特に力学の自然観について、ざっと駆け足で眺めてきたわけですが、これを以下のように単純に、ヌーソロジーにおける凝縮化の仕組みと対応させてしまうと、何だかちょっと違う気がします。

ψ*7 ~ψ* 8→ψ 1~ψ 2…古典力学的自然観の形成
ψ* 9~ψ*10→ψ 3~ψ 4…古典力学的自然観の完成
ψ*11~ψ*12→ψ 5~ψ 6…現代力学的自然観の形成
ψ*13~ψ*14→ψ 7~ψ 8…現代力学的自然観の発展

それには、例えば一見単純な二項対立のように見える、以下のような対化的な構造を何重にも併せ含み巻き込み繰り広げていく運動を行う必要があるように思います。

・ばらばら⇔まとまり
・分裂症(スキゾフレニー)⇔神経症(パラノイア)
・分析的⇔総合的
・開放的⇔閉鎖的
・古典論⇔量子論

ただ、その基本的な構造は、プラトンが掲げた「コーラ」(空間)と「トポス」(場所)の関係の中に表われているように思います。
プラトンが用いた「コーラ」は宇宙論的な「生成の容器」のようなものです。同じような言葉に「トポス」があるが、コーラはトポスほど特殊でも確定したものでもないといいます。例えば、数学でいう軌跡、つまり、特定の要求によって定められ、あるいはそこから導かれるような図形は、トポスにはなってもコーラにはならないとされます。
そこで、「コーラ」と「トポス」の関係を、以下の図における「器」を「コーラ」、「器の底」の部分を「トポス」とは呼べないでしょうか。

55-1 生成の容器と物体の運動

例えば、ニュートンが総合したものは、実際には、一番マクロな世界と一番ミクロな世界という両端を除いた世界において許された自由運動と言えるのかもしれません。その両端(あるいは両極)という「世界の縁(ふち)」はなおもまだ創造主である神が管理し、真ん中だけが物体に与えられた運動の自由というわけです。つまり、ニュートン力学は、依然神のご加護の下で語られた力学と言えるのかもしれません。それは神にとってはある意味取るに足らない小さな領域の現象ではありましたが、それは神の眼差しに触れた、つまり、微分として近似された後の領域の世界における運動と言えたかもしれません。それは、神の眼差しによって「光あれ」として世界が完全に開闢した後の世界であり、物体とはその固有物理量として質量を持った存在となっていました。ある意味そこは神の眼差しの走査によって地ならしされた原始の大地と呼べたかもしれません。逆に言えば、そこで運動する存在は、首から上をもがれたアタマなき存在であり、「対象」と呼ばれました。すなわち、「対象」の運動とは、「粒」の力学であり、そこはもう「場」を意識しなくても済むように保証された「永遠の楽園」でした。
ところが、そうして「無意識」になった「場」を意識させる契機は、ニュートン力学の精緻化を目指したラグランジュやハミルトンらの「解析力学」の土台にした「最小作用の原理」でした。これこそが「コーラ」を復活させる儀式の狼煙だったのです。

55-2 すべては神のご籠(かご)の中の運動

ハミルトンにおいて、
と書かれ、「作用」と呼ばれたものは、ファインマンの経路積分によって、古典力学から量子力学へと引き継がれました。少し短絡的に略して書けば、
に対して、これを量子論の単位であるディラック定数で割ったものを位相とする指数
を考え、その軌跡をすべて足し合わせるといった感じになります。

すべてを見つめる神の眼差しが作る場こそ「コーラ」であり、そのコーラにおいて作用が停留する場こそが「トポス」だと言えるのではないでしょうか。なお、この際、対応原理によって、

と対応され、運動方程式も、

と対応されます。

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