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2020年5月1日金曜日

85. 物語としての「わたし」の由来 (1)

急降下した途端、私たちはいきなり記憶を失います。いきなりドスンと転がり落ちたことによるショックのせいでしょうか。アタマの中が真っ白になっています。目の前の状況がよくわかりません。「わたしは誰? ここはどこ?」を通り越して、「わたしはどこ? ここは誰?」状態です。

とにかく、どこからか転がり落ちてきてここにいました。一体いつどこから転がり落ちてきたのかは全く覚えていません。目覚めたらここに留め置かれていたのです。一見ここの空間はふちがないように見えました。これはもっとずっと後で気づいたことですが、ここは「内からは無限に開いていたが、外からは有限に閉じている」ところでした。

85.1 モノという構造

それは私がふだん、地球上のどこかからか、宇宙に想いを馳せながら、夜空を見上げている状態に近いかもしれません。地球の表面上に立っていながら、宇宙の輪郭どころか地球全体の輪郭さえ見えず、宇宙の果てはまさしく無限の彼方に見えました。でも、この宇宙全体を把握する存在がいたなら、「宇宙全体を把握する」と言ったそれ自体が既に宇宙の外部に出ている証拠でした。宇宙の内部にいながら、宇宙全体をつかむように把握することには論理的矛盾があるからです。それは、かのクルト・ゲーデルの「不完全性定理」を、ある意味やや数学的背景を度外視して超意訳した以下の理屈から来ています。


○ゲーデルの「不完全性定理」の超意訳
「わたしの論理が正しいか否かを、わたしの論理体系の内部で判断することはできない。」
⇒「わたしの論理体系を破綻させる論理を持った他者が、わたしの外部に存在する。」

このことは、「わたし」の根拠というか「由来」みたいなものとも関係しています。この私たちが今や当たり前のように使っている「わたし」という意識の始まりは、「人間」という考え方、つまり、近代自我というものが登場してからだと言われます。その象徴としてよく採り上げられるのが、かのルネ・デカルトによる「我思う、ゆえに我あり」という言葉です。ところが、ラッセルによれば、この言葉が実は「自己言及のパラドックス」だと言うのです。これにはびっくりしました。詳しい過程は飛ばしますが、このデカルトの言葉を言い換えると、「『私はすべてを疑う』が、その私を疑うことはできない」ということになるのですが、これは「私は、私について言えない」という構文と同様になり、自己矛盾を起こして「非決定命題」となるということだそうです。

すべての学問・文化その他の人間の活動は、個別にはそれぞれ時期がずれたりしますが、いずれも、おおよそ、古典(クラシック)⇒近代(モダン)⇒ポスト近代(ポストモダン)というものをたどって、現在に至っています。面白いなと思ったのは、ちょうど、この「古典」の相当する位置のものが、「自己言及のパラドックス」に陥りやすい危険性を含んでいるかもしれないというところです。「古典」的なものは、「りんごは『なぜ』落ちるか?」という問いから来ている場合が多いような気がします。この問いに対して「重力です」という答えは誤りです。なぜなら、「重力はものが落ちることを説明するために用意された仕組み」だからです。したがって、言い換えれば、「『ものが落ちる』のは、『ものが落ちる』仕組みがあるからです」ということになって、何も言っていないことと同じになるわけです。

このゲーデルの「不完全性定理」およびラッセルの「自己言及のパラドックス」をひねくってみると、「わたし」の由来について、こんなことが言えるのではないでしょうか。


○「わたし」の由来
「わたしであるこの世界は、わたしでないところを根拠として成り立っている。」
⇒「わたしであるこの全体は、わたしでない点を光源として照らし出されている。」

85.2 真のわたしは投影されたものではない

言い換えれば、今わたしが「わたし」だと思い込んでいるものは実は「わたし」ではなく、他者から見られているわたしこそが現実のわたしを垣間見ているということになります。で、その現実のわたしというのもまた、エリック・バーンらの交流分析(TA)によれば、「幼児決断」と呼ばれる、親からの絆の切断体験(実際には「親から存在を否定された」と本人が勝手に解釈しただけですが)によって、膨らんだ無限の可能性から落下し、ペシャンコにされて、次元降下し、平面に叩きつけられて出来た「わたし」です。この「親からの存在否定」によって、その生身体験の空間構造が切り取られて、「わたし」の投影原型(行動の鋳型=テンプレート)が生成されたわけです。これ以降のわたしの人生ではこの行動の鋳型が使われるわけですが、この幾何学的空間構造を、ある意味、外界の情報を取り込んでわたしの内部世界に映し出す鏡、あるいは、投射機の光源として用いているわけです。この辺はまだまだ心理学的領域です。ヌーソロジーが探究する存在論的領域に踏み込むためには、ラカンの「鏡像段階説」における「大文字の他者」などの項目との対応付けなどについても、自分なりに考えてみる必要があると思います。

とにかく、「わたしである」という(ある意味「肯定」的な)わたしの内部世界の光源は、そんなのは「わたしでない」と信じたい点(ある意味「否定」したい点)であり、そのくぐりたくない点をブレイクスルーした者にだけ、その光源の先に、新しいわたしの可能性を見ることができるのです。それは今の自分と自己同一視している他者ではなく、「本当の他者」が光として洩れ射し込まれる点でもあります。「本当の他者」と出会えるラインはそこにしかありません。
この方向は、今のわたしが受動的に投影されている方向とは真逆です。わたしがこの「わたしである」ところを突き破って、能動的に外へ向かって出て行く方向です。心理学的に言えば、フロイトの心理学がトラウマや、場合によっては無意識的カルマさえ容認しかねない「原因論」的であるなら、これはアドラー心理学的な「目的論」的思考へとつながっていくのかもしれません。

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