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2013年6月4日火曜日

5. ヌーソロジーとは?

さて、「ヌーソロジとは何か」ということですが、ひとことで言ってしまうと、次のようになると思います。

ヌーソロジとは、「オコツト」と呼ばれる意識体とのチャネリング情報(「シリウスファイル」と呼ばれる独特の知の体系)をベースとして自然科学・人文科学・神秘学などの統合を目指した思考様式のこと。

この表現が比較的、的(まと)を得ている言い回しではないでしょうか。

昔、2冊目の本である『2013:シリウス革命』の初版本の帯には、「精神世界、ニューサイエンスを超える宇宙論」だと書かれていますが、これではいったいどんな方向の内容が含まれているか、全く類推できません。確かに恰好いい響きではありましたが……。

ところで、このヌーソロジーは、2008年頃までは「ヌース理論」と呼称されていました。しかし、「理論」と付けてしまうと、科学にしろ哲学にしろ、果たして、きちんと「理論」と呼べるような体系になっているかと問われれば、必ずしも「理論」の体裁を整えていないことがわかります。そこで、その後、思い切って、「ヌーソロジー」(ヌース学)と、その呼び名を変えられたようです。ただ、ヌース「学」と付いているからと言って、では果たして「学問」の体裁を整えているかというと、それもまた怪しいところではあります。

では、ヌーソロジーが目指すところ、あるいは、テーマといったものが、どんなところにあるのでしょうか。

簡単に言ってしまえば、それは今までとは全く違う「新しい人間のビジョン(宇宙観・世界観・人間観)を何とか作れないものか?」ということに端を発しています。

その新しい人間のビジョンを作ることが要請されてくる理由として考えられるのは、「近代以降人間の学問が作り上げてきた宇宙観・世界観・人間観は果たして本当なのか?」という疑念です。それは、今の時代に生きている私たちが感じている社会に対する閉塞感から来ているのかもしれません。つまり、「多様化する現代社会の行き詰まりの原因の根幹は、実はそうしたところにあるのではないか? 」という疑念です。

かつて、そうして閉塞的な状況が表われたとき、それを救済するかのように登場したのが、ある特定の宗教だとか哲学に基づく「こう生きるべきだ」「こうあるべきだ」という道徳でした。でも果たして、本当にそうなのでしょうか。「それを守らなければバチが当たる」といったある種脅迫めいた形をとるようなあり方で、本当に、新しい宇宙観や世界観や人間観を描けるのでしょうか。

こうした道徳的な考え方自体が、従来の私たちの考え方の基本になっているわけです。それこそが、ヌーソロジーが「人間型ゲシュタルト」と呼んでいる思考様式なのです。それは突き詰めれば、宇宙を一つに束ねる一者たる神の下で、人間は弱者だとする考え方です。

ヌーソロジーが目指すところは、私たちひとりひとりに対して、まずは人間であるこの思考様式から脱出せよ!と言ってくるわけです。これがヌーソロジーの現在の立ち位置ではないかと思います。

このことは、私たちのヌーソロジーに対する「学びの姿勢」をも要請してくるように思います。

つまり、一方的受け身で、何かの情報を教えてもらうという姿勢ではなく、自ら能動者として関わるというあり方です。

要するに、自ら考えるのではなく、たいして中身を見もしない商品を受け取るのでは、ヌーソロジーを学ぶことにはならないというわけです。簡単に言えば、「自らの思考を手放すな!」というわけです。

したがって、ヌーソロジーに対するあり方も、単に矛盾点をついてただ価値がないものと決め付けるのではなく、むしろ次に自らどう思考するのかを考えることの方が大切であるように、私には思えます。

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