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2018年3月27日火曜日

30. 触覚の延長と人間型ゲシュタルト

これは、ある意味「触覚」によって限定されているような強度感というものと大いに関係があると半田広宣氏は言っています。例えば、私たちは手で何かボールのようなものに触ったとき、特にギュッと握ったりしますと、単にそのボールの表面の肌触りだけでなく、内部にあるかさばりを感じます。つまり、そこは文字通り「モノの内部」になります。この触覚にとってはモノの外部は無いに等しいと言えます。視覚に現れるような、モノの外部性は感じません。
何が言いたいかと言いますと、私たちがこの宇宙を認識していると思っている、この世界観は、実は、この触覚を通じて象(かたど)られている観念を拡げたり縮めたりしていることと連動させて、この空間の広がりや大きさを意識したり認識しているのではないかということです。要するに、ヌーソロジーの次元観察子ψ1とψ2は、モノの内部の観念の膨張と収縮のことだというわけです。その意味で、ψ1とψ2においては、常に長さだとか大きさといった尺度概念がまとわりついていると言えます。半田広宣氏は、『NOOS LECTURE LIVE DVD 2009-2010 Vol.4』の中で、こんなふうに言っています。

モノの長さとか大きさというのは境界がないと無理です。例えば、こういう球体があって、直径何センチと言った場合、その直径の両端の点という境界がなければ成り立ちません。つまり、裏返して言えば、大きさという概念は、モノの内部性に由来するということです。モノの内部にかさばりがあって、それを、例えば10センチなら10センチと決めて、それをモノがないところにあてはめているということです。目盛がそこで打たれるということは、そこで空間的な差異がないと、目盛が打てません。その目盛の概念が何に由来するかと言うと、モノと空間の境界に由来しています。ヌーソロジーではそのような考え方をします。
モノの外に出られていません。モノの外に出られていないということはどういうことかと言うと、そういう概念で宇宙を見ているときは実際に見ているモノが見えていないということです。なぜなら、モノというのはモノの外に出て初めて見えてくるからです。つまり、ここは無意識化しているという言い方になります。意識としては働いているのですが、そのモノの空間において、われわれが自分の手前にあるモノを見ている空間と、モノの境界イメージをぐわーっと拡げてしまった空間とは全く違うというわけです。この2つの空間には違い、つまり、差異があるということを言っています。そして重要なことは、この差異がわれわれの認識に上がって来ていないということなんです。

つまり、モノの内部と外部の差異が人間の認識にはまだ上がってきていないと言っているわけです。半田広宣氏は、「宇宙の大きさが137億光年だとか平気で言う思考法においては、このモノの内部に幽閉されている」と言っています。
 
半田広宣氏はこのことを自身のブログであるcave syndromeの「差異と反復………5(http://noos.cocolog-nifty.com/cavesyndrome/2007/01/5_35bd.html)の中で、次のようにわかりやすいイメージを使って説明してくれています。

君がガス会社の社長だったとしよう。君は技術部から新しく完成したガスタンクの完成記念式典に招待される。技術者たちは君を稼働前のガスタンク内部に案内し、その概要について説明を行う。「このタンクは直径100メートルあって、球体型のタンクとしては世界一の大きさを誇ります。」君はそのガスタンクの内壁を見上げ「ほう、すごいねぇ?」と驚嘆の声を上げる。そのとき事務員の女の子が「記念品です」と言って、純金でできた直径10cmほどのガスタンクのミニチュアモデルを持ってくる。「ほほう、外側のデザインもいいんだねぇ?。」と君は満足げに微笑む。ミニチュアを見るときは君はもちろんモノの外部にいて、モノと空間の差異が見えている。しかし、実物のガスタンクを見るときは君はその内部にいて、ガスタンクと空間の差異は見えない。そして、そこがガスタンクの内部であるという認識は君がガスタンクの外部を知っているから言えることだ。。ということは、どんなに巨大な空間であれ、君がその外部に出ることができるならばそこはモノの内部と呼べる領域になる。巨大な直径の球空間をイメージしていけば、地球だってモノの内部に入れることが可能だ。いや、太陽系だって、銀河系だって、モノ概念としての球空間の中に放り込むことができるわけだ。そうやってそれを内部と見ている君の外部の視座はどんどん後退し、やがてすべての内部は宇宙と呼ばれる半径137億年の巨大な球体の内部に収まってしまったとさ。めでたし、めでたし。。。。ん?しかし、そのときの外部ってどこだ。

何をいわんとしているかお分かりだろうか。つまるところ、僕らはモノを認識しているものの、そこに対応させている概念は、結局のところ、モノの内部としての空間でしかないのではないかということだ。しかし、現実として知覚空間上にはモノの内部と外部という差異が存在している。このことを一体どのように考えればいいのか。

要は単なる大きさの差異のみで空間を概念化しているのがまずいのだ。というのも、距離や面積や体積などを支えている尺度概念にはモノと空間の差異が存在していないからだ。何度も言っていることだが、尺度概念というものはもともとモノの内部表象から派生してきている。だから、尺度によって空間の大きさをイメージすると、必然的に空間の広がりに対する認識は、モノの内部にあると目される3次元的なかさばりの表象と同じものになってしまう。尺度概念への依存は、結局、モノの内部がモノの外部を寝食して、モノの内部に同一化させている思考状況と言えるのだ。

僕らが一般的に所持している3次元の空間認識は、実のところ未だモノの中でしかなく、そこに外部は存在していない。モノの外部が存在しないということは光が存在しないということでもある。そして、光が存在していないということは3次元的な思考は知覚に何一つ接していないということでもある。当然、そのような認識には差異がない。こうした差異なき意識状態をヌースでは「有機体」と呼ぶ。有機体は「位置」を持たない。「位置」とは哲学的に言えば実存のようなものだ。
cave syndrome 「差異と反復………52007/01/18 より)

このように、人間の意識はある意味、モノの内部に落ち込んでしまっていて、モノの内部と外部の差異が認識できなくなってしまっているというわけです。このような人間の意識の状態のことを、ヌーソロジーでは「人間型ゲシュタルト」と呼ぶわけです。

図1 モノの中に落ち込んでいる人間の意識
cave syndrome「時間と別れるための50の方法(11)」2008/06/06 より)

簡単に言えば、「人間型ゲシュタルト」とは、人間が持つ物質的世界観のことだと言っていいでしょう。要するに、デカルトが「我思うゆえに我あり」と言って近代理性が「コギト」と呼んだ、人間の自我を支える力と、この物質概念をもって宇宙をイメージしている力は、根本的には同じだと言っているわけです。
これは、現代科学において、物質を対象としか見なさず、観測者の概念をうまく採り込めないでいることと深く関わっているということです。つまり、現代科学においては「見ている人間がいなくても宇宙はある」という宇宙原理の考え方が主流になっていますが、ヌーソロジーでは「見ている人間がいるから宇宙はある」という人間原理の考え方に立っているということになります。
 
最後に、改めてヌーソロジーで言っている「人間型ゲシュタルト」の意味を掲げておきましょう。

人間型ゲシュタルトとは

ψ1~ψ2領域は物質概念という同一性に支配された差異なき差異の世界である。この領域の中で自然世界を思考する概念の体系が、ヌーソロジーが「人間型ゲシュタルト」と呼ぶものと考えていい。

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